人生の意味というもの一般についての問い

人間存在は責任存在であり、この責任存在とはそのつどの価値の実現に対して責任を有する存在のことである。そしてわれわれは、この価値について、一回的な価値すなわち状況価値が考慮されなければならない。価値実現の機会はそれゆえ具体的な性格をもっている。それは状況に関係しているだけではなく個人にも結び付いている。より正確に言えば、価値実現の機会は、時々刻々変化するとともに、個々人によっても変化するのである。各々の人間が自分にとって、そしてただ自分にとってのみ有している可能性は、各々の時間的状況がその一回性において与えている可能性と同じく独自なものである。

一般的に妥当しすべての人を拘束するような人生の使命というものは、実存分析の観点では本来ありえないように思われる。この観点から見れば、人生の使命というもの一般、人生の意味というもの一般についての問いには意味がないのである。それはたとえば記者がチェスの世界チャンピオンにインタビューして次のようにたずねるようなものである。「どういう手が一番良い手なのか」この問いには一般的に妥当する仕方で答えることはできず、ただ具体的な状況と個人との関連においてのみ答えることができるだけである。もし仮にこの問いを真面目に受け止めたとすれば、次のように答えるほかはなかったであろう。「チェスの棋士がなすべきことは、自分に可能なことと対戦相手が許すことに応じて、その都度、最上の手を打とうと努めることなのです。」

ここで二つのことが強調されねばならないだろう。第一に自分に可能なことに応じて。これは内的な状況すなわち素質と呼ばれているものを考慮に入れねばならないことを意味している。そして第二に考慮されなければならないのは、この当の棋士が務めることができるのは、ある具体的なゲームの状況の中での一番良い手を最初から絶対に最良の手を打つことを追求していたならば、概念と葛藤に苦しめられて、少なくとも持ち時間を越えてしまい、ゲームを放棄することになるにちがいないからである。

これとまったく同じようなことが、自分の人生の意味についての問いの前に立たされている人間についてもいえる。彼もまた、もしそれが問いとしての意味を持ちうるとすれば、その問いを自分の具体的な人格と具体的な状況を顧慮してのみ立てることができるのである。もし彼がそれを飛び越えて、単に絶対的に最善のことを行おうと努めるというだけではなく、それを行うことに取りつかれてしまうとすれば、それは間違っているし病的でもあるだろう。確かに、彼は最善を志向しなければならない。そうでなければ多少とも善いことも決して生じないだろう。けれどもそれと同時に、彼はただ自分の目的以上に漸進的に到達することより以上のことは断念しうるのでなければならないのである。P.131